講演会等資料探究レポ

春足文書 江戸東京文学散歩(石井町公民館『ふる里の語り草』第17集)

春足文書 江戸東京文学散歩

石井町公民館『ふる里の語り草』第17集 掲載原稿

報告者 佐藤 武

この原稿を書くに当たって「ふる里の歴史を学ぶ会」から示された注文は、「昨年の講座(二〇二五年十二月十三日)のテーマに沿った内容」というものであった。当日、私はNHKの大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺」が翌日(十二月十四日)最終回を迎えるという絶好のタイミングだったので、「遠藤家文書に残されたNHK大河ドラマ『べらぼう』登場人物たちの墨跡」と題して、遠藤家文書に残る蔦屋重三郎、四方赤良(大田南畝)、山東京伝、曲亭馬琴、十返舎一九、西村与八の資料を取り上げ、紹介したのである。今回はその報告をそのままなぞるというのも面白くないので、少し視点を変え、それより少し前、二〇二五年六月二十七日~三十日の間、実施した表記「文学散歩」についてご報告しようと思う。

一、遠藤春足家、江戸店(江戸支店)跡

春足の唯一(と思われる)紀行文、『東日記』(『吾嬬日記』とも。文政七年跋(一八二四))の最後は次のように結ばれている。

かくてツの鼓鳴ころ八町堀なるおのれがかまへおきたる家にハつきぬ(1)

この記述によると春足は当時八丁堀に江戸店を構えていたことがわかる。この記述をもう少し正確に表記すれば「本八丁堀三丁目安兵衛店 阿波屋吉右衛門」ということになる。(「八丁堀」という地名は他の遠藤家文書の中にも頻出しており、当時から「本」は省略して「八町堀」(あるいは八丁堀)と呼び習わしていたのだろう。「安兵衛店」の「安兵衛」は建物の所有者、「阿波屋吉右衛門」は江戸店の店主名(春足の大伯父の名前)と思われる(2)。)

この文学散歩は春足の商売上のまた文化的活動上の江戸の拠点でもあったこの地から始めよう。

まず、「本八丁堀三丁目」が現在のどの位置に当たるかを考える。幸い徳島県立文書館に、嘉永三年(一八五〇)に作られた「江戸切り絵図」のうち「築地・八丁堀 日本橋南之図」というのがあり、これと我が携帯の中に入っているGoogle地図とを慎重に見比べて見ると「本八丁堀三丁目」はどうやら現地下鉄日比谷線八丁堀駅近くにあった地名である。あとは現地に行って詳しく調査すればよい。

江戸切り絵図「築地八丁堀日本橋南之図」
江戸切り絵図「築地八丁堀日本橋南之図」

初日、私は羽田空港から京浜急行に乗り、地下鉄浅草線の宝町駅に降り立った。この駅のすぐ南西をほぼ東から西に貫いている大きな通りが鍛冶橋通りといい、西に行けば東京駅丸の内、反対方向に行けば霊岸島につながっている。先述の地図を見るとこの道路は堀であったところを埋め立てて作られたようである。この堀に沿って北岸の北から順に本八丁堀一丁目から五丁目までが並んでいる。北から歩いてくると左にこの周辺では珍しい昭和の雰囲気が感じられる校舎めいた古い建物が建っている。看板には「京華スクエアー」とある。調べてみるとこの建物は元、「京華小学校」だったそうで今は中央区の公共施設として利用されているらしい。「本八丁堀三丁目」はほぼこの小学校があるブロックと考えてよさそうだ。

なるほど、江戸八丁堀に江戸店を構えるとはさすがである。前記「藍玉屋名前帳」を見ると、当時、(文化元年一八〇四)藍玉屋として八丁堀には遠藤家以外にも七軒が名前を連ねている。言うまでもないことだが日本橋地域は当時から今に至るまで日本経済の中心地である。すぐ前の堀(今の鍛冶橋通り)は江戸湾に直結しており、荷物の運送には申し分ない。さらにいうならばこの堀の反対側(西側)一〇〇mあるかないかの所には「松平阿波守」(蜂須賀公)の中屋敷があり、恐らく事務的手続き等で常日頃から出入りしていたと思われる。「八丁堀」は藍玉を扱う藍商としては絶好の場所だったのである。

二、狂歌の師・六樹園(石川雅望・宿屋飯盛)住居跡

粕谷宏紀『石川雅望研究』(3)によると春足の狂歌の師・六樹園宿屋飯盛(石川雅望)は、文化十年から十三年の間、息子清三郎が霊岸島湊町に転居したのに伴って雅望もほどなく同所に転居したそうである。雅望にとってはかなり晩年の転宅だったようだ。この霊岸島は本八丁堀三丁目からは目と鼻の先である。何という偶然だろうか。

鍛冶橋通りを四、五〇〇mほど東に進むと大きな堀にぶつかり高橋という立派な橋がかかっている。この橋の向こう側が昔も今も霊岸島である。(こういう地形は日本橋周辺のように変化の激しい場所でも昔の地形がそのまま残っている場合が多いようだ。)雅望の住居がどのあたりにあったのか。それを特定する有力な手がかりが二つある。

まず一つ目は手鑑2-8-2 雲多郎宛五老書簡である。

(前略)小子此節霊岸島之二階住居/いなり橋と高橋とを一めに/見わたし富士も見え候所也(後略)

これによると霊岸島二階の住居からは「いなり橋」と「高橋」とを一目に見渡すことができ、「富士山」も見ることができるとある。

もう一つはen200729 「六々園先生宛 清澄(雅望の長男清三郎)書簡」である。この書簡は極月廿三日の日付があり、文政十二年三月に起こった江戸大火について次のように報告している。

(前略)当春三月廿一日火災にて/作物家内諸道具とも少しも/持不出土蔵とも焼失いたし候/東湊町店ハ小子梅太郎にてしのき/迯申候者(と)もあとにてさうさう/土蔵ハ目ぬりいたし申候穴蔵ハ/手廻りかね焼失いたし候/両親ハ命からから迯申候/八丁堀霊岸しまにて焼死人/数しれ不申御遠察可被下候/親とも書物ハ裏稲荷社へ/少々(し)入申これハ石にてたゝき/あけ申候社にて御座候故たすかり/申半分ハ出しかね焼失/仕候生涯はしめての事/にて御座候(後略(4))

これによると霊岸島の住居は「東湊町」にあったこと、さらに「裏」には「稲荷」があったことがわかる。

私はこの二つの情報を先述の切り絵図と照らし合わせてみて、雅望の住居は今の東京都中央区新川2丁目7-4、新川ザ・レジデンスあたりではないかと見当をつけた。高橋を渡り東へ五ブロックほど進み、左折、三ブロックほど行くと越前堀児童公園という公園がある。切り絵図を見るとこの一角が松平越前守の中屋敷があった場所である。かなり広大な屋敷だがその北西の隅が公園として残されたようだ。ここには越前堀の由来が書かれた中央区教育委員会が建てた案内板が建っており、この説明図によっても現・明正小学校の北隣あたりに稲荷があったらしいことが分かる。その地点には今はマンションが建ち並び昔のおもかげはない。しかし雅望の頃ならば西に堀(実は亀島川)南西に今渡ってきた高橋、その向こうにいなり橋、そして遠くには富士山も眺めることができただろう。

雅望はここに移転後、三四年して裏に念願の書斎(隠居部屋)を建てている。そのいきさつについて、春足に次のような書簡を送っている。長くなるが面白いので引用しよう。

此度大望を企候小子楼上/之住居御存之通不勝手ニて/殊ニ毎月之会集ニも供之/人之居所も無之仕合きのとくに/存をり候侭此節清澄か/住宅のうしろの方ニこれまて/長屋有之候所朽損し候間/こぼち取払申候右之跡へ/一箇大伽らんを建立可致と/かまへ候尤月並ハ勿論ニて/執行可申奉存候間すこし/広く造立可仕存候付而ハこれ/まて月並之外ニハ狂歌等/取集之事ハ不致候へ共此度/建立之はしたてニもと一会/相企別帋御覧被下御連中方/あまさず御出詠被下度希上候/この造作の事久々心かけ居/候へ共御案内之通り四ツ谷/辺ニても度々移居其後只今/の処ニ引こし候へは度々之//宿うつりニて御勝手方困窮/に及ひ候へハ見あはせをり候事ニ/有之候此節ハ右地面明キ地/と成候事故此時造作いたさざ/れば時を失ひ候事故強て/右造立をは思ひたち候彼霊岸/のためしにならんハかしこく候へ共/偏ニ諸天の御与力をあふき/る事ニ而候(5)

「大伽藍」を「建立」したなどといかにも狂歌師らしいユーモアあふれる書簡である。この「建立」を記念して企てられた狂歌会のチラシが残っているので興味のある方は「狂歌文書館」で見て頂きたい(6)。

ところがこの住居は先ほど引用した清澄書簡でわかる通り文政十二年三月廿一日の江戸大火で焼失したのである。雅望は住居を失ったばかりでなく、四十年以上にわたって書きためてきた古典研究のメモ、万巻の書物等もほとんど焼失したという。この火事は晩年の雅望にとって相当痛手だったらしく、一年二ヶ月後の天保元年(一八三〇)閏三月二十四日に亡くなっている。享年七十八歳であった。

三、蔦屋重三郎(蔦重、蔦唐丸) 耕書堂跡

続いて訪れたのは令和7年NHK大河ドラマの主人公蔦屋重三郎の店「耕書堂」があった日本橋通油町(とおりあぶらちょう)である。

霊岸島から八重洲通りを西北へ、まず銀座通りに出る。日本橋までは徒歩十五分か二十分ほどの道のりである。

日本橋は御存知の通り今は首都高速の橋脚の下にかくれ昔のおもかげはない。日本を代表する景観がなぜこのような無残な姿になったのか。これも高度成長とオリンピックが重なった不運の遺物である。さすがこれはないだろうということで、何年後かに撤去するらしい。今はその工事中である。日本橋を越え、三越本店の北角を右折する。この何でもない道が五街道のうちの一つ、旧日光街道である。この道を浅草方面に十五分ほど進むと左側に「東横イン日本橋馬喰町」というホテルが見えてくる。この場所(中央区日本橋大伝馬町一五)が耕書堂のあった場所とされており、中央区教育委員会の案内板も立っている。日本橋にしてはさほどにぎやかな場所ではないが、先述したように江戸時代は旧日光街道に面しておりさぞにぎわっていただろう。蔦重は最初は後述するように吉原大門前に小さな店を出していたのだが天明三年(一七八三)、この地に移った。当時この地には幕府公認の書物問屋(今でいう学術書を扱う本屋)や地本問屋(浮世絵・草双紙を扱う本屋)が軒を連ねていた。有名なところではドラマでも登場した須原屋、鶴屋など。今で言えば岩波や三省堂が軒を連ねる神田神保町のようなところである。

東横イン入り口の柱には「浮世絵の街・日本橋/通油町 蔦屋重三郎の耕書堂:東横INN 日本橋馬喰町前」という見出しで「紅繪問屋 耕書堂」の浮世絵が大きくコピーして掲げられている。

東横イン日本橋馬喰町 入り口
東横イン日本橋馬喰町 入り口

この絵を見ると大勢の男女で賑わう店先の奥には写楽の大谷鬼次の奴江戸兵衛、北斎の「神奈川沖浪裏」も見え、また表の看板には「忠臣大星水滸伝/山東京伝」、「東都名所一覧狂歌人彩色摺」「狂歌千載集 高点の秀を集む」とあり、狂歌が人気を博していたことがわかる。

なお余談ではあるが、この大伝馬町の一本裏通りは小伝馬町で石川雅望の実家である宿屋があった場所である。雅望はそれに因み狂名を宿屋飯盛と名乗ったのである。

四、吉原

吉原遊郭を話題にするに当たって一つ留意しておかねばならないことがある。それは吉原が性を売り物にして女が男をもてなす場所だったということである。それ故、この地は江戸時代にあっては「悪所」と呼ばれていた。「悪所」と呼ばれていたところは他にもある。「歌舞伎」である。この二つは江戸初期は共に日本橋の人形町周辺にあったのだが、明暦の大火(明暦三年 一六五七)、後、浅草寺裏手へ移された。風俗の乱れを考えてのことである。「悪所」とはいえ、両所は大変賑わった。江戸後期、江戸文化の発信地と言っても過言ではない。江戸後期大衆文化の爛熟期を迎え、そのにぎわいは浮世絵、黄表紙や洒落本といった大衆小説、狂歌、川柳、音曲、演劇等に活写されている。吉原抜きでは江戸後期文化は語れないのである。

二〇二四年三月二十六日から五月十九日まで上野の東京芸大美術館で「大吉原展」が開かれた。私はちょうどこの文学散歩のため上京していたので立ち寄ってみた。国の内外から集められた吉原を題材とした作品(ほとんど浮世絵)は全二二八点。そのどれもが名品揃いで、中でも「吉原の花」と題された喜多川歌麿の肉筆画(ワーズワース・アテネウム美術館所蔵)には圧倒された。吉原仲の町の桜を描いたもので描かれた人物は総勢五十二人、全員女性という大作である。

江戸時代、江戸市中から吉原に行くには主に三つのルートがあった。一つ目は柳橋あたりから隅田川を船で遡り山谷堀で下船。日本堤を「土手八丁」行くコース。二つ目は浅草寺裏から馬道を北へ、日本堤に出るコース。三つ目は浅草寺裏の田んぼの中を抜けるコース。今回は行きは隅田川コースをとり帰りは馬道を通った。

雷門の東、隅田川にかかる橋を「吾妻橋」と呼ぶ。ここから右岸(西側)が隅田川公園としてよく整備されており、歩きやすい。昔は「ちょき」とか「にたり」と呼ばれる軽快な船で隅田川を遡った。山谷堀は今は水門だけ残され日本堤は遊歩道と化して整備されている。途中「ちょき」の復元船もあり演出が心にくい。

山谷堀から二、三丁進むと正法寺という寺がある。今は八階ほどもある高層ビルに変わっているが一階、お寺の部分を裏に抜けると蔦重のお墓がある。

正法寺 蔦重の墓
正法寺 蔦重の墓

この墓は寺記によると度重なる火災・震災・戦災によって崩れてしまったので信頼できる記録に基づき建て替えたそうである。立派な黒御影石が二基。右側は蔦屋家歴代、左側は喜多川柯理墓碣(原文漢文 石川雅望撰)と実母顕彰の碑(原文漢文 大田南畝撰)が一面に刻まれたもの。少し長くなるが蔦重の人となりがよく分かるので寺のHPから現代語に訳したものを引用しよう。

喜多川柯理(からまる)本性丸山、蔦屋重三郎と称する。父は重助、母は広瀬氏。寛延三年庚午一月七日江戸吉原の里に生まれる。幼くして喜多川の養子となる。その人となりは志、人格、才知が殊に優れ、小さな事を気にもかけず、人には信頼をもって接した。吉原大門の外に一軒の書店を開き、後に通油町に移転、父母を迎えて厚く養ったがその父母も相次いで亡くなった。柯理は郭の産業を盛んにして自らも一廉の財をなした。その巧思妙算(発想力や人を結びつける力と世事物事を見通す計算高さ)は他の及ぶところなく頭抜けていて、ついに耕書堂という大店をなすこととなった。丙辰の年の秋に重病を得て一ケ月後危篤となる。寛政丁巳の年の夏、五月六日にこう言った。「私は今日の昼時には死ぬよ」身の回りの始末をし、妻と別れの言葉を交わし、昼時になり笑ってまた言った「自分の人生は終わったはずなんだが(芝居の終演に鳴らす)拍子木がならない。ずいぶん遅いな。」言い終わった後はもう言葉を発することはなく夕刻になって亡くなった。齢四十八歳。山谷の正法精舎(当山正法寺)に葬られた。自分は十里離れたところに居てこの訃報を聞き畏れの心と共に心底驚いた。正に悲痛の極みである。まあ私などただの霽壌間の一罪人に過ぎぬ身である。そんな余生を君と知り合うことのできた恩遇と共に過ごして行くこととしよう、今はこんな気持ちである。ああ夢の儚さよ。

銘曰 人間常行 載在稗史 通邑大都 孰不知子  石川雅望

この文章は石川雅望が類書刊行の疑いを掛けられ、江戸十里四方所払いの刑に処せられ、成子村(今の調布市)に住していたころのものと思われる。

遠藤家文書中、蔦重の書き物は二点ある。共に「唐丸」の署名がある狂歌短冊である。蔦重は先述したように寛政九年(一七九七)に亡くなっている。ちなみに「蔦屋重三郎」の名は二、三代と続いているが「唐丸」の狂名は初代のみである。寛政九年と言えば春足十六歳の時である。とすればこの短冊は唐丸本人から手に入れたものではなく、誰かから譲られたか、あるいは購入したものかもしれない。面白いので引用しよう。

きぬきぬは瀬田の長橋長ひきて/四つのたもとそはなれかねける  唐麿(手鑑2-45-4)

蔦屋重三郎(唐麿)狂歌短冊(手鑑2-45-4)
蔦屋重三郎(唐麿)狂歌短冊(手鑑2-45-4)

【語注】
*きぬぎぬ(後朝) 男女の逢瀬が終わった後、明け方に二人が別れること。また、その時刻。
*瀬田の長橋 滋賀県大津市の瀬田川に架かる橋。平安時代、歌枕として瀬田の唐橋は「瀬田の長橋」と呼ばれ、長いもののたとえになっていた。
*四つのたもと 男女の両方の袂(たもと)合わせて四つ。四つは午前三時頃の意も掛ける。

【歌意】
一夜を共にした相手と別れなければいけない後朝(きぬぎぬ)には、その別れが瀬田の長橋のように長引いて男女の両方の袂(たもと)合わせて四つがなかなか離れられないことだ。

夏痩の 小川の水を ふとらせて/むなきもふらす ゆふ立の雨  唐麿(手鑑1-67-1)

蔦屋重三郎(唐麿)狂歌短冊(手鑑1-67-1)
蔦屋重三郎(唐麿)狂歌短冊(手鑑1-67-1)

【語注】
*むなき うなぎのこと。うなぎは古名「むなぎ」が転じた語。
*夏痩・太らせ うなぎの縁語。

【歌意】
夏痩せのように流れが細くなった小川の水を再び太らせて(大きくして)うなぎのような(太い)雨を降らせる夕立の雨よ

元の日本堤、今の山谷堀公園を西に進むこと八丁(約九〇〇m)、衣紋坂(えもんざか)と呼ばれたところを吉原大門の方へ曲がる。道は「く」の字に折れ曲がっている。これは吉原帰りの人が顔を見られたくないように配慮して曲げたといわれている。途中左側に蔦重が商売初めのころ出していた本屋の跡があり、今も記念して蔦重から出された出版物を展示している。

旧吉原大門入り口には「見返り柳」と題する台東区教育委員会の案内板と柳が立っている。

見返り柳
見返り柳

旧吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから『見返り柳』の名があり、
  きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
  見返れば意見か柳顔をうち
など、多くの川柳の題材となっている。
かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い、現在地にうつされ、また、震災・戦災による消失などによって、数代にわたり植え替えられている。
平成八年七月 台東区教育委員会

「見返り柳」といえば誰しも樋口一葉『たけくらべ』冒頭の一文を思い出すに違いない。

廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に灯火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて大音寺前と名は仏くさけれどさりとは陽気の町と住みたる人の申しき。・・・

ここに出てくる「お歯黒溝(どぶ)」は今は埋め立てられ見ることは出来ない。仲之町、江戸町、角町、京町等、通りの名前から昔を想像するだけである。樋口一葉記念館はここからほど近い所にあるが今回は寄らない。

仲之町の中程に今回の大河ドラマにあやかってか新しい「耕書堂」ができており「蔦重グッズ」がいろいろならべられていたのにはびっくり。

さて、吉原と言えば遠藤家文書の中には三点、おもしろいものが残っている。

まず、一点目は春足自身のことではなく江戸の八王子店を任せていた吉右衛門という人にまつわるエピソードである。ここに引用するには少し長すぎるので概要だけ載せておこう。

『春屋随筆』から
〇阿波屋吉右衛門の事
阿波屋吉右衛門は武蔵国八王子駅に住たれどもと阿波国高河原村の人にて吾祖父翁のためにハ甥にてありけるを養ひて子となしつゝ藍玉といふものを東の国々に鬻(ウラ)せばやとてかしこにハつかハしぬるになむ此人うまれつき豪侠にしてつねによく検を守り唯念を家業にのミもちひ金を得ることそくはくなりさてある時江戸にものして浅草の観音にまうでけるにともなへる人こよひハ吉原にものせまほしきよしいへばもとよりさるふようのことはふかくいみ悪む本性なれともかゝるをりにことさらにいなみなんにハただひたふるのものをしみのやうにのミ評せられんもくちをしと思ひけれハいさとてもろともにものしぬさて其の楼にのほりて其妓女(アソビ)のもとにやどりけるに此妓女ことに情ふかきものにて何ことにもいみしう心をもちひつゝいといとねんころにもてなしけれハ吉右衛門かの妓女にむかひていふやうおのれハ八王子それの町にすみて阿波国の藍玉といふものをうることを家の業とせるものにて候がけふハ浅草のくわんおんにまうでゝはからずもともなる人にさそハれてかうこゝにハきつるにて候なり(中略)さてあけの朝はまだいとくらきほどよりおき出つゝかのあそびにむかひて此家の佛の御厨子ハいつくに候やをしへ給へといへバそハ下さま??家あるじのつねゐるわたりにこそ候なれ君にハいかにし給ふにかといへばべちのことにても候ハねどおのれが先祖たちの御霊へ今日の御礼を申のべたく候なりさるハ家にありてハいかばかりことしげきおりにても朝ごとにまづ此礼ををへさるほどハ何ことをもなし侍らぬことに候へはかゝるふようのところにやどり候て此礼をおこたり候ハんことハつみをそろしうこそおほえ候なれいであないし給へといへばあそびハさてもありがたきことをもきゝ候ものかなうちいでゝ聞え申さんもはづかしうハ候へともわかともからなどハまだをさなきほどより此里に人となりて候へば先祖の御うへなどハさらなりおやはらからのうせ給ひにし其日をだにもさだかにハしり侍らで一日の?うじをだにえせぬばかりのすくせつたなき身にハさふらふなりといひて涙をはらはらとながしぬとかさて佛の御前にともなひゆきけれバやがて鐘うち鳴しつゝ光明真言念仏などさのミながながにもあらねど例時やうに唱へをハりて今ハいでゝかへらんとしけるにかのあそひとゝもに此家の妻なる人いできておのれ年来かゝるなりはひして幾千の君たちをやどしまゐらせしかどいまだ君のやうなる御まらうとを見まゐらせすつたへうけ給ハるかのいにしへ室の君の性空上人をやとしまゐらせしにもいかてかおとりさふらふへきあなたふとあなありがたといひてひたすらにぬかつき?ふしをかみけるとそ右吉右衛門のはやうみづから物かたりけるまゝをしかしぬるになむことし天保壬辰七月朔日齢七十八にて卒りぬ

【概要】
①阿波屋吉右衛門は八王子駅(甲州街道の宿場)に住んでいるが②元々は阿波国高河原の人である。 ③春足の祖父(三代目宇治右衛門 のち 治兵衛)の甥であったが自分の子として養った。(ということは春足にとって大叔父)。④藍玉の関東売りを任せ八王子(の出店)へ遣わせた。⑤性格は豪侠(肝っ玉が大きく男気があること)でまた倹約家でもあり家業に専念した。金を得ること「そくはく」(日本国語大辞典 きびしくせまること。さしせまることとあるのでしっかりしていたということか?)であった。⑥あるとき江戸に出かけ浅草観音に詣で、仲間の誘いを断り切れず吉原の遊郭に登楼した。⑦相手の女郎は親切にもてなしてくれた。⑧翌朝帰りぎわになって仏壇を拝ませてくれと言うので不思議に思った女郎がその理由を尋ねると、家に居るときは毎朝仏壇を拝まなかったためしがなく今日に限り欠かすことは罪深いことであるという。感心した遊女は仏壇に導くと吉右衛門は念仏を唱えた。⑨このいきさつを陰で聞いていた遊郭の女将も出てきて、あの室の君が性空上人を宿したという話にも匹敵する有り難い話だと感動して伏し拝んだ。

吉右衛門という人がいかに堅物であったか、あるいは信心深い人だったかを表す挿話として語っている。

二点目は春足の師、六樹園宿屋飯盛が編集した狂歌本『吉原十二時』である。刊期ははっきりしないが粕谷宏紀氏は「本年(文化十四年)までに『吉原十二時』(魚屋北渓画・半一冊)を刊行する」としている。この本は書名通り吉原遊郭の一昼夜(十二時)の情報を十二刻(十二の時間帯)に分け、まず格調高い雅文で描き、その後に見開き(二ページ)で魚屋北渓の巧みな筆遣いで遊郭の一場面が挿絵として載り、続いて全国から集めた狂歌が高点順に並べられている。驚くことに春足は十二時全体で七十八首、ほかにアハと書かれた人(おそらく春足の六々園社中の人)の九十七首が入集しているのである。この優遇振りは破格といえる。そのうちの一つを次に紹介しよう。

いよ染のもすそかゝけて高炉峰の雪のはたへをめづる客人  アハ 六々園
(『吉原十二時』手鑑1-13-2)

【語注】
*いよ染め 染め文様の名。縞模様に濃淡をつけ、重ねた伊予簾(すだれ)二枚を透かしてできる木目のような文様に染めたもの。江戸時代、文化年間(1804〜1817)に流行した。(goo辞書)
*もすそ 裳の裾。衣服の裾。(日本国語大辞典)
*香炉峰の雪 「雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子(みこうし)をまゐりて。炭櫃(すびつ)に火おこして、物語などしてあつまりさぶらふに、「少納言よ、香炉峰の雪はいかならむ」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾(みす)を高く上げたれば、笑はせたまふ」(『枕草子』二百八十段)に拠る。さらに「香炉峰の雪」は白居易の詩「遺愛寺鐘欹枕聴 香炉峰雪撥簾看(遺愛寺の鐘は枕を欹て聴き 香炉峰の雪は簾を撥げて看る)」に拠る。
*かゝけて 撥ね上げて。巻き上げて。
*めづる 「愛づる」。いとしがること。
*客人 この歌は『吉原十二時』の『丑時』に採られているので、吉原に遊ぶ「客人」と解される。

【歌意】
(女郎が着ている簾によく似た)伊予染めの着物の裾をまくり上げて、あの『枕草子』に登場する「高炉峰の雪」ならぬ女郎の雪のような白い膚をよろこんでいる客人よ。

【鑑賞】
「もすそ」の形容として「伊予染め」が用いられたのは上記語注にあるように「伊予染め」の特徴が「簾」と深い関係にあることによる。その「簾」の縁で「香炉峰の雪」が導かれ、さらに「(雪のような)女郎の膚」と連想が続くのである。非常に入り組んだ縁語仕立ての狂歌である。

三点目は天保二年(一八三一)九月と日付のある書簡である。宛先も差出人も記されていないので江戸のだれかが春足に知らせてきた情報なのかも知れない。内容を要約すると、

最近、江戸吉原扇屋抱えのおいらん(資料では太夫)花扇が三ツ子を産んだ。しかも三人とも男。奉行所に届けたところ産着一重、「御扶持」(報奨金)を下された上、名も下さり、上から一太郎、二治郎、三之助とつけた。花扇は今、吉原で並ぶ者がない全盛の花魁なので大評判となり、仲之町の道中の折など黒山の人だかりだった。
天保二年(1831)九月

この花扇は先述した「大吉原展」でも五渡亭国貞が描いた見事なベロ藍の錦絵が展示され、人目をひいていた。(ただし花扇と名のつく花魁は何代か続いているので三つ子を産んだおいらんが何代目かは分からない。)

吉原からの帰りは馬道を通る。このコースは陸路の代表的コースで文字通り馬で行く人が利用した表道だったのである。今回は逆にたどったので二、三〇分ほどで浅草寺の裏手に到着。さてここで私はある目的があった。それは遠藤家文書『六々園漫録』 第一巻中に次のような文章が残っているのであるがその正否を確かめたいからである。虫食いのため判読出来ない箇所が多数あるが引用しよう。

山東京傳醒々老人又山東庵と号す東都京橋のほとりに住すおのれはやうより江戸にものすることに必とふらひゆき?年ころのしり人なりさるをことし文化十三年九月七日ミまかりけるよし五老翁のもとよりせうそこのついてにいひおこせたりさて此翁没後其家弟京山百樹翁か年ころもちならしたる文机を浅草に埋てはやう翁の自ものしゝ文机の記を石にゑりて建たり碑陰にハ大田南畝翁の文をしるしたりともに紙ハ今日たるを五老翁のもとよりおくりおこせ給ひけれハ今こゝにしるせり

明和六年といふとしの六月はかり齢九歳といふに師のかとにいりたちていろはもし習ひそめし時親のたまハりしふつくゑなむ此つくゑにハありけるをさればつくりさまもおろそかにてミやひたるかたハ露もなけれとはふ?し捨すとしころのたのもし人にてか???をさらすひとり愛つゝあり?し年??にちかく何くれとつくれる冊子百部をこえたりそはおのかこゝろたましひもほれほれしうまなこ(?)もかすミゆくにいつしかこれもたしろきがちにうちゆかミなとして???に老しもらへるさまなるはあハれいかゝハせむ
耳?そこねあしもくしけてもろともに
世にふる机なれも老たり
  山東庵京傳
文化十四年丁丑春二月(7)

【概要】
①山東京傳・醒々老人、又、山東庵と号す。江戸・京橋のほとりに住す。②自分(春足)は前々から江戸に行く度に必ず訪問し、長年の知己であった。③ところが「今年(文化十三年1816)九月七日死去した」という知らせを石川五老(雅望)翁からいただいた。④京傳翁の没後、弟の百樹翁(山東京山)がこの机を浅草寺に埋めて石碑を建て、表には京傳翁が生前書いていた「文机の記」という文章を、裏には京傳翁の友人・大田蜀山人が書いた文章を刻んだ。⑤共に紙は今のものであるがこれは石川雅望翁がその写しを送ってくれたものである。

概要中特に注目すべきは②④であろう。

観音堂裏手に回ると広々とした一角がある。表側の観音堂正面は今も東京観光の筆頭に上がるほどの人気ぶりで終日日本人・外国人でごった返している。ところが裏に回るとそれが嘘のように消えてほとんど人が見当たらない。そんな一角にひときわ目をひくものが明治の劇聖と言われた九代目市川團十郎の『暫』像である。『暫』は言わずと知れた歌舞伎十八番中の代表的演目。この像は柿の素袍に大太刀を佩いて大見得をきった馬面顔の九代目団十郎の風格がよく写し取られている。

さて目的の「文机の碑」はこの右隣に健在であった。

横に建てられた台東区教育委員会の案内板によると

山東京伝机塚の碑
山東京伝(一七六一~一八一六)は、浅草や吉原を題材とする戯作を多く著わし、北尾政演の画号で浮世絵もよくした人物。
この碑は、京伝の弟京山が文化一四年(一八一七)に亡兄を偲んで建立。表面には晩年の京伝撰「書案之記」を刻む。書案とは机のことで「九歳の時に寺子屋に入った際、親の買ってくれた机を生涯愛用し、この机で百部を越える戯作を書いた。しかし五〇年近くも使ったのでゆがみ、老い込んださまは哀れである。」という意味の文と「耳もそこね、あし(足)もくしけてもろともに 世にふる机なれも老いたり」の歌が記されている。また裏側には、京伝と親交のあった戯作者太(ママ)田南畝の撰による京伝の略歴を刻む。
京伝の生涯や人間性を伝える貴重な資料で、平成二年に台東区有形文化財として登録。
平成六年二月 台東区教育委員会

山東京伝 机塚の碑
山東京伝 机塚の碑

私は『六々園漫録』引用の読めない箇所を確認しようとしたが、残念ながらこの碑は建碑以来の幾多の災害をくぐり抜けて来たと見え、判読出来ない箇所が多く、確認はできなかった。

因みに、この「文机の記」については、井上ひさしが『戯作者銘々伝』中の「山東京伝」でおもしろおかしく取り上げている。

五、墓参り

浅草周辺には蔦重ゆかりの人物たちの墓が多く残されている。私は石川雅望、葛飾北斎、佐野善左衛門政言、山東京伝、滝沢馬琴の墓に詣でた。ここでは石川雅望、山東京伝、滝沢馬琴に限って報告しよう。

(1)石川雅望の墓

浅草寺からほど近い地下鉄大江戸線蔵前の駅を上がると道路を挟んで向かい側に「榧寺(かやでら)」(門柱には「榧寺」とあるが、「榧寺」は俗称で正確には「正覚寺」)という寺がある。本堂横の墓地の奥に簡単な仕切り壁があり、その中に高さ五〇cmほど、ほぼ正方形の墓石が三段の礎石の上に建っている。正面には「先祖墓」とのみ刻んである。粕谷宏紀著『石川雅望研究』によると、もともとは「六樹園石川雅望之墓」と一人墓であったが、明治二十三年火災、大正十二年大震災、更に第二次世界大戦を経て元の墓は失われ、この墓石(文久元年十二月建立)のみとなったそうである。雅望の墓と知る手がかりは礎石正面に刻まれた「五側マーク」のみである。

榧寺 石川雅望墓
榧寺 石川雅望墓

春足はこの二十九歳年上の師匠から単に狂歌のことを学んだだけでなく古典文学、文章の書き方、生き方そのものについても多大の影響を受けている。六々園漫録第二巻には「石河(ママ)雅望ノ伝」という章をもうけ、雅望の略伝を淡々とした筆致で書き記している。かなり長い文章なのでここでは最晩年文政十二年江戸大火に遭った時以降の記述を引用する。

(前略)かくて同十二年三月神田より火出て霊岸/島鉄炮洲にいたるまで残りなく焼わたり/ける時翁の舘もこの災にかゝりて雅言集/覧源注余滴をはじめ年来著ハされたる/書の草稿ともみながら焼うせにけれは/翁も大に望をうしなひ深く歎き思は/れつゝ是より後ハただふしがちにて枕をの/ミ友にてくらされけるかつひに天保元年閏/三月廿四日齢七十八にてみまかり給ひぬ則/某の寺に葬りて俗名六樹院臺譽五老/居士と申しき
天保二年十二月七日
  六々園春足誌(8)

この文章は雅望の没後一年九ヶ月足らずの時点で書かれたものである。今と比べて比較にならないほど情報量の少なかった時代、しかも阿波の徳島という江戸から遠く隔たった地で雅望の人となりの要点を余すことなく記述していることは驚きである。(参考にした資料があるかどうかは不明)。入門前から雅望に心酔し、教えを受けていた春足ならではの追悼文である。粕谷宏紀氏の『石川雅望研究』によれば、長男塵外楼清澄は墓の側に石碑を建立したが、その石碑は今はなく、碑文(吉田勇雄撰文の漢文)のみが残っているとのことである。とすればこの伝は貴重なものではなかろうか。

(2)山東京伝の墓

山東京伝は「文机之記」で記したように江戸時代後期の戯作者の中でも最も人気のあった一人である。デビュー作は黄表紙の一種、『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』。主人公の艶次郎は挿絵(北尾政演=山東京伝)で鼻が空に向いた醜男として描かれているが、本人はなかなかの美男だったと伝えられている。(大河ドラマ「べらぼう」でも長谷川一夫を思わせる美男、古川雄大が演じている)

JR総武線両国駅を降り、国技館、江戸東京博物館等の反対側(南側)出口から十分ほど歩くと「回向院」という有名な寺に出る。「両国」と聞けば誰しも相撲を思い浮かべるが江戸時代はこの寺の境内で興行が行われていたため「両国回向院」と「相撲」は切っても切れない仲になったのである。今も境内に入ると「力塚」を始め相撲関係の石碑が目立つのはそのためである。さて、目指す山東京伝の墓はどこにあるか。後で分かったことだが不思議なことに案内板らしきものが全く無く、探し回ったあげく、墓地の外側、「力塚」のすぐそばでようやく見付けることが出来た。なぜ見付けにくかったのかと言えば、墓碑銘が「山東京伝」ではなく本名の「岩瀬醒(さむる)墓」となっており、またこの境内は有名な石碑が多く、いちいち案内板を出すのが面倒なためであろうと思われる。初めて墓を訪ねる場合、「鼠小僧次郎吉の墓」のすぐ近くと覚えておけばよい。「岩瀬醒(山東京伝)」「岩瀬百樹(京伝の弟・山東京山)」「岩瀬家」の三つの墓が並んでいる。

回向院 山東京伝墓
回向院 山東京伝墓

先にも引用した『六々園漫録』の記述によれば、春足は江戸へ出る度必ず訪問するほど親密な仲であったらしい。遠藤家文書の中にも何点か書き物が残っている。その中から未だに判読できず、苦しんでいる書き物(色紙)がある。それを敢えてお示ししよう。判読出来た方はご教示願いたい。

■山東京伝 書き物(手鑑1-51-2)

如何/是通子/再来の意氣/夜分の/かゝハ其分/楮牙船に/稲わら  京傳筆(9)

山東京伝 書き物(手鑑1-51-2)
山東京伝 書き物(手鑑1-51-2)

字形をそのまま読み解くと上のようになる。しかし、狂歌として見ると音数が全く合わない。漢詩ともいえない。意味もさっぱり分からない。無理を承知で解釈すると「如何是通子」は禅問答でよく出てくる「如何是仏」(いかなる是仏 仏とは何ぞやの意味)の形で、「通子とは何ぞや」という問いかけであろうか。「再来の意気」はその答えで、「またやってくる意気を持った者」ととる。「夜分のかゝは其分、猪牙船に稲わら」は「それに引き替え、夜の、うちのかかは、通人を運ぶ猪牙船どころか稲を積んだ運搬船のようなものだ」と解釈してみる。「通子」とか「猪牙船」と聞けばすぐ吉原通いの通人を思い浮かべるが、それに肩すかしを食わせたのである。とんでもない見当違いの解釈かもしれない。

(3)滝沢馬琴の墓

『南総里見八犬伝』『椿説弓張月』等、江戸後期の読本作者滝沢馬琴の墓は地下鉄丸ノ内線「茗荷谷」駅から徒歩十分くらいの文京区小日向四丁目九ー五 深光寺にある。拓殖大学の正門前と覚えておくと分かりやすい。さほど大きな寺ではないが、滝沢家の菩提寺であり、『馬琴日記』にも頻出している。

深光寺 滝沢馬琴墓
深光寺 滝沢馬琴墓

【写真準備中:深光寺 路女(みちじょ)の墓】

境内左手墓地中央付近にある文京区教育委員会が建てた案内板は次の通りである。

滝沢馬琴墓(文京区指定史跡)
馬琴は江戸の人。明和4年~嘉永元年(1767-1848)。江戸時代後期の著名な戯作者。”南総里見八犬伝””珍説弓張月”など多数の作品を残した。著作堂、蓑笠(さりゅう)、玄同など多くの別号をもち、晩年は髪をおろして、曲亭馬琴と号した。
墓碑には、馬琴の法名「著作堂隠誉蓑笠居士(ちょさくどういんよさりゅうこじ)」と馬琴より先に没した妻お百の法名「黙誉静舟到岸大姉」があり、台石には、馬琴の蔵書印といわれる家型の模様が刻まれている。江戸後期の著名な戯作者の墓として、歴史的価値が高い。(墓本堂左わき)
なお、馬琴の墓の後左側には、晩年、失明した馬琴を助け、南総里見八犬伝を完成させた、嫁の路女(みちじょ)の眠る墓がある。法名・操誉順節路霜大姉・
浄土宗 深光寺 文京区小日向4-9-5

遠藤家文書の中に馬琴の墨跡は数点残っているが、やはり狂歌がいちばん面白いのでここに引用しておこう。

■滝沢馬琴狂歌色紙

 山居
山さとも茶菓子ハ/さらに事かゝす/まつ風のおと/落雁の声  馬琴(10)

滝沢馬琴狂歌色紙(手鑑2-45-5)
滝沢馬琴狂歌色紙(手鑑2-45-5)

【語注】
*まつ風・落雁 ともに当時有名だった和菓子の名を掛ける。

【歌意】
山里に住まいしていても茶菓子には少しも不自由はしない。松風の音も聞こえ、落雁(地表に舞い降りる雁)の姿も目にすることができるから。(銘菓「松風」・「落雁」も揃っているから。)

【付け足し】
案内文にもあるように、晩年、失明した馬琴は息子の嫁、お路に口述筆記させ、『南総里見八犬伝』等を完成させたと言われている。ただでさえ気むずかしいことで有名な馬琴がはき出す聞いたこともない漢語を必死に筆記するお路の苦労は想像を絶する。加えてお路と馬琴の密接ぶりに馬琴の妻が焼き餅をやき、口論は絶えなかったそうである。まさに地獄のような毎日であっただろう。しかし馬琴自身は芥川龍之介が描いた『戯作三昧』の法悦境にひたっていたのかも知れない。

■天保三年、瀬部春暁(春足の友人・弟子)、滝沢馬琴を訪う 顛末記

何気なくAIで「天保3年 滝沢馬琴、瀬部春暁」と入力して検索してみると次のような「AIによる検索結果」が出た。

【AIによる概要】
天保3年(1832年)の滝沢馬琴と瀬部春暁の関わりについて、馬琴の日記『馬琴日記(ばきんにつき)』に記録が残っています。阿波徳島(現在の徳島県)の藩士で諸(ママ)生の瀬部春暁は、屋代太郎の紹介で馬琴のもとを訪れて面会を求めました。しかし、馬琴が多用であったため、病気を理由に面会を断り、また一両日中に来るように伝えたというやり取りが記されています。また、瀬部春暁は「阿淡百人一首」などの狂歌でも知られており、馬琴も関わった江戸時代の狂歌ネットワークの中で繋がりのある人物でした。

驚くべき時代の「進歩」である。何と便利な時代になったものだろうか。勿論この記事はこれまでにインターネット上にUPされた情報を要領よくまとめたものに過ぎず「AI」君が独自に調査した結果とか考察ではない。従ってそれを鵜呑みにするのは危険である。例えば瀬部のことを「阿波徳島の藩士」としているのはどういう根拠に基づくものだろうか。また「屋代太郎(弘賢のこと)の紹介で馬琴のもとを訪れて」とあるが、次に原文を引く通り「屋代弘賢の紹介による」とはどこにも書いてないのである。更に言えば「阿淡狂歌集」などの「狂歌」は「狂歌集」と書くべきだろう。

確かにAIによる回答はそのまま信用できないのであるが、だからと言ってこの便利なツールを無視するのはもったいない話である。私の場合この情報によって春暁が馬琴を訪ねていたという話が事実かどうか確かめるきっかけを与えてくれたのである。こういう情報を利用しない手はない。あとは「馬琴日記」で確かめればよいのである。

早速県立図書館の蔵書を検索してみたところ残念ながら所蔵していない。(何たる怠慢!)と腹を立てながら、職員に聞いてみると、「市立図書館にはあります。」という意外な結果(ありがとう!)。早速貸し出しカードを作ってもらい無事借り出すことができた。その結果を次に紹介する。

『曲亭馬琴日記』 柴田光彦編集 2010年刊。中央公論新社。1~4と別巻 全5巻

天保三年壬辰春正月
家内安全新年祝儀吉例の如し
◯正月己酉 晴 風烈 深夜風止(中略)
一夕方、屋代太郎殿、為年頭祝義、入来。口状ニ申置。是ゟ、日々年頭礼者ハ別帳ニ記之。こゝにハ略之。(以下略)
一今朝雑煮祝果て、宗伯、礼服ニて、伴人太兵衛召連、地主杉浦氏并ニ屋代氏等、近処処々年頭祝儀申入。(以下略)

この記事は天保三年壬辰年の正月冒頭の記録である。ここに登場する屋代太郎、及び屋代氏とは屋代弘賢のことである。馬琴は屋代と頻繁に交流しており、それは別巻に収録されている「人物屋敷類」の索引をみても「屋代太郎(屋代氏・殿)」の項目でひときわ抜きん出て多いことが確認出来る。(ついでながらこの索引の後に付されている説明を引用しておく。)

「[弘賢。通称大郎(一般に太郎と書く。)国学者。幕府奥右筆所詰、奥右筆格、百五十俵高。神田明神下。天保十二年閏正月十八日歿。八十四歳。滝沢家近所。尾張屋敷(切絵図、下谷絵図に所載)]」

馬琴は家が近所であったこと、また屋代が有名な蔵書家でもあったので書物の貸し借りを頻繁に行っていたようである。(ちなみに馬琴は屋代に対して呼び捨てにはせず、必ず「殿」もしくは「氏」の敬称を付けている。)

さて問題は件の瀬部春暁が馬琴を訪問したという記事である。

確かにありました。

天保三年四月廿五日壬寅 薄晴(中略)
一屋代太郎殿諸生阿波徳嶋の人瀬部春暁、又来り。面謁を乞ふ。右同断ニ付、病気ニ託して不逢。一両日中又参のよし申置。帰去。

これによると春暁は「阿波徳嶋の人 瀬部春暁」とはっきり名乗り面会を求めたらしい。対して馬琴は病気を理由に面会を断っている。(これは瀬部に対して冷遇したというのではなく、馬琴は未知の人物とは対面しない主義だったらしく他の誰に対しても同様の態度をとっている。)

気になるのは「又来り。」の「又」である。これを確認するため四月廿五日以前を読んでみたがどうしてもみつからない。(念のためさきほどの「人物屋敷類」索引を見ると「瀬部春暁」という項目があり、「天保三④25[屋代弘賢諸生。阿波徳島の人]」だけしか出ていない。)

馬琴は非常に几帳面な性格だったと見え、この日記以外にも来訪者は「滝沢家訪問往来人名簿」というのを残しており(『曲亭馬琴日記別巻』所収)それによると「**(貼紙入ル 天保(一八三二)壬辰三月六日来訪不逢宗伯を以病臥のよしを以辞対面。一阿波徳嶋の人 当今屋代殿方ニ罷在書生のよし 瀬部春暁」とある。「又」は三月六日をさすらしいので三月六日の記事を確認してみたがどこにも見当たらない。(記録忘れか?)

つまり、瀬部は三月六日と四月廿五日に来訪しているが両回とも面会を断られている。

これらの記事を読んで私が不思議に思うのは春暁が屋代の「諸生」であるならばなぜ師である屋代の紹介状をもらわなかったのだろうかということである。屋代と馬琴のつきあい方をみるならば、いくら気むずかしい馬琴でも屋代の紹介状があれば逢ってくれたはずである。

さらに不思議なのは、四月廿五日以降も屋代と馬琴は頻繁に会っているにもかかわらず、屋代の書生である瀬部が馬琴を訪ねたことは一度も話題に取り上げられていないことである。書生の動向など問題にならなかったのだろうか。

それはさておき、馬琴日記という貴重な記録を通して、
①瀬部春暁が天保三年(1832)三月六日と四月廿五日、滝沢馬琴宅を訪問し、面会を求めた。(ということはこの時期、春暁は江戸にいたというアリバイが成立する。天保三年は春暁の最大の功績『阿淡狂歌百人一首』が刊行された年であり、さらに阿波を出奔したのもこの頃と思われる。)
②瀬部が屋代弘賢の開いていた塾の書生であったという傍証にもなる。
ということが確認出来る。

収穫としてはささやかなものであったが、これを機に『曲亭馬琴日記』を読むことができ、馬琴に対するイメージがかなりUPしたことは大きな収穫であった。やはり馬琴は江戸きっての「知の巨人(化け物)」である。

注

(1)『狂歌文書館資料番号』(以下『狂歌文書館』と表記) en200384
(2)『文化元年子年四月 藍玉屋名前帳』
(3)粕谷宏紀『石川雅望研究』(昭和六十年 角川書店)
(4)徳島県立文書館史料番号 en200729『六々園先生宛 清澄書簡』
(5)『狂歌文書館』手鑑2-26-1『六々園大人宛 五老書翰』
(6)『狂歌文書館』手鑑1-24-1『六樹園艸堂新造狂歌合ちらし』
(7)en200374『六々園漫録 第一巻』
(8)en200375『六々園漫録 第二巻』「石河(ママ)雅望ノ伝」
(9)手鑑1-51-2
(10)手鑑2-45-5

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