
正月廿七日二月三日両度之
華章相達辱拝見仕候
御揃愈御壮勇奉賀寿候
随而小生義当年はいかなる
禍津日の神ニとりつかれ
候やさしつゝき風邪ニ
せめられ漸略十六日出
勤仕候程之事に而何
事も打捨御国(??)への返
書も怠候事ニ御座候然は
尊君へも存外御無沙
汰申訳も無御座候
第一に申上は難後言御
清書ニ而御恵贈被成下
大ニ難有奉存候早々大坂
長田鶴夫方へ見せ申候
是は兼而御噂申置候故
先見セ候義ニ御座候いまた返し
不申候扨又花田首之?ニ
若山竹人と書てハいかゝとの

事承知仕候へとも是は
なきかた可然奉存候尤
かの跋めきたるものはホンノ
一時之戯ニてとても板に
彫候やうの事ニ而は無
???御除被下候や可
然やもし御加え被下候とも
若山人となき方よろし
きわけハ畢竟花男
帯の中ハ締たりといふ
を秀句に書たるなれハ
その縁ならぬ詞ありて
わろく奉存候又評之御
詞も
或人曰?ノ論を
とか
若山人曰ーーー
とか
御しるし可被下候加納諸平曰
なとはよろしからす候間

其段御含可被下候右
一條はことに早々御?
可申上筈之処右之
仕合ニて延引ニ相成候
ニ付九日あはたゝしく
先此事のミ申上候書
余は後便以上
二月十七日
只今又々急用ニ而
我友より呼ニ来り候
ニ付いろいろ申上度事
あれとも略之
且又旧臘被仰越候
御地両子入門之事
承知仕候処去ル十五
日彼方より詠草??
等参り今日返事を

差出し申候??御伝
達尚又よろしく奉
希候実は小生今以
さつはりしたるもあらされ
ハ筆とるもくるしく
御座候両??中
又一封差上可申候
哥もあまたよめり

二月十三日
(鶴夫書状中)
尚々難後言拝見仕候
よく出来おかしく御座候
此節うつさせ置申候間しはし
御かし可被下候??次第返却
可仕候
(是は後便尊兄も評を希度候)
子日記も近日御手ニ
廻り次第拝見奉仰?
語注
*長田鶴夫(おさだたづお)
気づき
注目すべき情報大意。
①『難後言』清書本(刊本ではない)送ってもらったことに対するお礼。早速長田鶴夫に送ったが未だ返さない。
②「花田」以下不明。諸平が花田某の名を使って何かを評した言葉に対し、春足が評したのに対する反応か。戯れ書なので諸平と分かるような書き方は避けたいと言っている。
③十二月、(春足より連絡のあった)阿波の国の人が「入門」するとの申し出、承知した。(大平へ入門するのか?諸平へ入門するのか?不明)
補足
最後の断簡(PC121414)は諸平の断簡か?「二月十三日」の日付があるが切り口から見て同じ書簡とは思われない。『難後言』の感想があるところから見て、同じ書簡に封入された別の書簡かも知れない。
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