講演会等資料

石井町講演会・シンポジウム「阿波藍と江戸文化」 資料

時:2025/12/13(土) 於:石井町中央公民館

遠藤家文書に残されたNHK大河ドラマ「べらぼう」登場人物たちの墨跡

報告者 佐藤 武

同時代グラフ

資料1 蔦屋重三郎(蔦重、蔦唐麿)

【人物】

蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう)寛延3年(1750) – 寛政9年(1797)は、江戸時代中期から後期にかけて活動した版元。安永3年(1774)に北尾重政の『一目千本』を刊行して以降、江戸日本橋の版元として化政文化隆盛の一翼を担い、大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴、北尾重政、鍬形蕙斎(くわがたけいさい)、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽など多数の作家、浮世絵師の作品刊行に携わった。本姓は喜多川、本名は柯理(からまる)。通称は「蔦重」、「重三郎」といわれる。号は蔦屋、耕書堂、薜羅館など。商標は「富士山形に蔦の葉」とされた。自らも狂歌のほか戯作の制作も行っており、「蔦唐丸(つたのからまる)」と号した。その他、俳諧では「蔦十」と号して句を寄せている(wikiによる)。

【墨跡】狂歌短冊

きぬぎぬは 瀬田の長橋 長びきて/四つのたもとぞ はなれかねける  唐麿

夏痩の 小川の水を ふとらせて/むなきもふらす ゆふ立の雨  唐麿

資料2 四方赤良(大田南畝、蜀山人、杏花園)

【人物】

大田 南畝(おおた なんぽ)寛延2年(1749)- 文政6年(1823)は、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。名は覃(ふかし)、字は子耕、南畝は号である。通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、蜀山人(しょくさんじん)、杏花園、狂名、四方赤良(よものあから)。また狂詩には寝惚(ねぼけ)先生と称した。勘定所に勤務し支配勘定に昇進した幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を得た。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された(wikiによる)

【墨跡】狂歌・狂詩

早乙女の脛のくろきに仙人も/つうをうしなふ気つかひハなし    蜀山

暫ゝ三升柿素袍 颯開切幕舞台囂 紛ゝ張子首如雨 一抜市川大太刀     蜀山人

分厘の雲さへ晴てそろはん/の玉の三五の十五夜の月

資料3 宿屋飯盛(石川雅望、六樹園)

【人物】

宿屋飯盛(やどやのめしもり)宝暦3年(1754)- 文政13年(1830年)は、江戸時代後期の狂歌師、国学者、戯作者。本名は糠屋 七兵衛(ぬかや しちべえ)、後に石川 五郎兵衛(いしかわ ごろべえ)に改めた。字は子相、号は六樹園・五老山人・蛾術斎など。狂名は宿屋 飯盛(やどやの めしもり)。国学方面では石川雅望を名乗った。浮世絵師の石川豊信の五男として、江戸に生まれた。狂歌ははじめ頭光、四方赤良のもとで学び、文笑らと「伯楽連」を名乗った。蔦屋重三郎と組んで刊行した『吾妻曲狂歌文庫』(天明6年刊、北尾政演画)や、『画本虫撰』(天明7年刊、喜多川歌麿画)などの狂歌絵本の刊行によって、狂歌師の地位を不動のものにする。天明末年には鹿都部真顔・銭屋金埒・頭光とともに狂歌四天王と称されるが、寛政3年(1791年)家業に関する冤罪によって、狂歌界から退く。文化9年(1812年)に狂歌界へ復帰する間に、古典文学研究や和文章の錬磨に打ち込み、大田南畝主宰「和文の会」に参加したり、狂歌グループ「五側」を結成したりした。復帰後は真顔と狂歌界を二分した。文政13年(1830年)死去。享年78。(wikiによる)

【墨跡】

業平の歌を/われらか/ほむるにも/こゝろ/あまりて/詞たらはす   六樹園 靏山

富貴自在徳嶋につとへる歌膝のろくろく/のひとつら鳴門の浪の花を題にてこゝ/かしこにしをりしつゝ桜間の池のふかき/あさきをいとはす善六橋のたわむはかりこゝらの/ことのはをよせあつめつかくて大麻彦の/御まつりのくらへ馬といふ式にならひて/なにかしらに鞭をとらせてとしとおそき/をこゝろミんとすおもふたつぼに北山桜/こゝらで一首せい見山地蔵のかほの釘委/さんど飛脚京なにはをさへもよほし/ものして矢上の楠のおほきなるまとゐの/むしろをひらきにたりさるハその名も/なる瀧の玉なす詞のいやたかきいやの高橋/こなひける雲多楼のあるじをもて/わかめかるてふさとのあまのおやぢぶん/とはあふぐなるへし此木津上の角力/たちにわれ勝浦といさむもあらん又一言/も伝内左衛門降参をするものもあらんか/こゝか言下の八坂八濱なかなかおかしき/見ものにこそいてや此国の名産なる藍/より青き千代の松はらなかくひさしく/此会のうちつゝきなんことをいひて阿波の/しまわの島屋便りに海山ふかきこゝろはかりを/一筆啓上のはしつかたに封じておくりつかはす/になん              六樹園

資料4 山東京伝(北尾政演)

【人物】

本名は岩瀬 醒(いわせ さむる)、通称は京屋伝蔵。江戸深川の出身。後に京橋、さらに同所東側、この店で京屋といって煙管、紙製煙草入れなどを商い、その傍ら戯作も著述、後半生はこの方面で活躍した。『江戸生艶気樺焼』の主人公が色男を気取る獅子鼻のどうらく息子艶二郎だったために、当時吉原では色男を気取る自惚れ屋を艶二郎と呼ぶのが流行した。錦絵はほぼ天明年間に集中し、寛政3年以降の京伝の作品はほとんど蔦屋重三郎・鶴屋喜右衛門が版元となっている。京伝の合巻は特に挿絵の面白さが魅力で、大変な人気を誇っていた。京伝本人は整った顔立ちだったが、自身を作中で登場させる際は、団子鼻が特徴の不細工に描くことが多く、「京伝鼻」と呼ばれ人気者だった。新吉原の花魁を身請けし、正妻としたが死去したため、再び身請けし後妻とした。文化13年死去。享年56。京伝が没した翌年、弟の京山が浅草寺境内に「机塚」の碑を建立した。(wikiによる)

【墨跡】狂歌短冊・戯文書き物

 雪解
山々の一度に笑ふ雪解に/そこは沓沓爰は下駄下駄    京傳

如何/是通子/再来の意氣/夜分の/かゝハ其分/楮牙船に/稲わら   京傳筆

資料5 曲亭馬琴(滝沢馬琴)

【人物】

曲亭 馬琴(きょくてい ばきん)明和4年(1767)- 嘉永元年(1848)は、江戸時代後期の戯作者。本名は滝沢 興邦(たきざわ おきくに )、号は著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など。代表作は『椿説弓張月』、『南総里見八犬伝』。副業として下駄屋を営んだが、『南総里見八犬伝』の大ヒットにより、ほぼ原稿料のみで生計を営むことのできた日本初の専業作家とされる。天保10年(1839)、73歳の馬琴は失明し、執筆が不可能となった。このため、宗伯(長男)の妻・お路が口述筆記をすることとなった。馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路に対して妻のお百が嫉妬し、家庭内の波風は絶えなかった。
馬琴はお路を筆記者として『傾城水滸伝』や『近世説美少年録』の執筆を続けたが、これらの完結を見ないまま、嘉永元年(1848年)82歳で死去する。(wikiによる)

【墨跡】狂歌色紙

 山居
山さとも茶菓子ハ/さらに事かゝす/まつ風のおと/落雁の声    馬琴

 桜
酔ぬとはいハれぬ/春の花さかり/さくらも肩に/かゝりてそゆく   馬琴

資料6 十返舎一九

【人物】

十返舎 一九(じっぺんしゃ いっく)明和2年(1765) – 天保2年(1831)は、江戸時代後期の戯作者、絵師。『東海道中膝栗毛』の作者。本名は重田貞一(しげた さだかつ)寛政6年(1794)(30歳)、江戸へ戻り、通油町の版元・蔦屋重三郎方に寄食して用紙の加工や挿絵描きなどを手伝った。享和2年(1802)に出した『東海道中膝栗毛』が大ヒットして、一躍流行作家となった。。文政5年(1822)までの21年間、次々と『膝栗毛』の続編を書き継いだ。

【墨跡】狂歌短冊・狂文と狂歌書き物扇面

 別恋
本望をとけしそひ寝もけさはまた/かねをかたきとおもふ別路     一九

徒然艸に土大根/の精賊を防きし/ことをしるせり/今もふろふき/大根は堪かたき/寒さを防く糠漬/となりては沢庵和尚の/名誉を顕し馬附と/なりては曽我の五郎か勇勢を/つたへ梅漬にさくらの花を/咲せ鱠にしら髪の雪を/ふらす干大根の甘きも絞/汁の辛きも但に食をすゝ/む歌の切花いろいろ/
 唐にては人参と/いふもことハりや/これ大根の薬/なりとて  東都十返舎一九画賛

資料7 西村屋与八(西与)

【人物】

西村屋 与八(にしむらや よはち、生没年不詳)は、江戸時代の浮世絵の版元。蔦重、鶴喜とともに天明寛政期における錦絵の代表的な版元であった。3代目まで続いた。書物問屋・地本草紙問屋。(wikiによる)

【墨跡】六々園先生宛て 西村与八 書簡

一 白痴物語之板木は類焼之/板蔵へ入置焼失仕候(中略)焼失仕候段幾重ニも御詫び申上候而御高免?被遊可被下候(後略)

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