
再度之貴翰此ほと
相届奉拝見候寒中之
砌ニ御座候処弥安康ニ
御座被成奉寿候然は梅男
ぬし夏中江戸当着
拝謁(?)いたし候??御物語
も仕候其後焉馬事
貴地ニても厄介ニ相成候
御国??の習立川縁者
の者馬喰丁なにかしへ
止宿たのミ列間(??)一座敷
借用いたし凡三十日斗
御滞留の事ニ御座候
宿賃も御払無之何方へ
か御出之様子に御座候
梅明方へ度々御尋被成候
春友亭も断りニ御座候
其儀ハ浅草?社中ニ
前髪之御方床間(??)かな川

宿なにとか申寺へかおし込
の盗賊有之少々により
の仁迄もうたかはしく
きひしく尋ねと御座候右の?
梅男ぬし出入りの事梅明も
断申候其上江戸表にて
?号枝?御ちらし御出シ
?先舎へ御たのミ被成候処
右ちらし代銀占正へも
?損もかけ其後御遣しも
不被成候右上ハ両人より
委細承知いたし候事ニ
御座候屋代氏へ内弟子
申シ込被成候とて野子ニ
受人ニ相立くれ申候様
御たのミ被成候へとも印形事ハ

家主へも相届其上ケ様ケ様と
申事まて申さねは
家主も承知いたし不申候
いろいろ六ケ敷事故
受判の一件ことはり
申御??に可被下候
○六暁園ぬしの一条
奉承知候然ル処額面
御たのミ御状小子方へハ
今以相不届候しかし
早々相認可上候例之
通り(額面風に 六暁園)
としたゝめ申て
よろしくと存???
○為念申上置候中村屋
梅太郎とハ糠屋七兵衛とハ
違ひ申し候間左様??可被下候

兎角梅太郎へ御出しにて
御書稿も届かね申候○印
入にも届かね申候倅故
ともかくも宜しく御座候へとも
一寸申上置候当年月並も
延引之段御?????
御作文暫借用いたし申度候
写置申度候〆竹へ
彫刻いたさせ申てハ
いかゝ御出来希上候??
六暁園大人へよろしく
よろしく御伝言??申上候梅男の
一条あらまし申上候五側
あしさまニ被申事
さもあるへくとミなミな
申をり申候二便?
可申上候早々謹言
語注
*立川焉馬 烏亭 焉馬(うてい えんば、寛保3年(1743年)- 文政5年6月2日)は、江戸時代後期の戯作者・浄瑠璃作家。式亭三馬や柳亭種彦などを庇護し、落語中興の祖とも言われる。本名は中村英祝。和泉屋和助の通称があったが、住まいの相生町の竪川をもじった「立川焉馬」や、親交のあった5代目市川団十郎をもじって「立川談洲楼(たてかわだんしゅうろう)」または「談洲楼焉馬」と名乗ることもあった[1]。また、狂歌においては、大工道具をもじった「鑿釿言墨曲尺(のみのちょうなごんすみかね)」の号を用いることもあった。(以上wikiによる)
現立川談志の師系の元祖とも言われる。飯盛とも交流があったようである。
得られる情報
(読めないカ所多数につき間違っているかも知れない。)
①梅男のこと 夏の間に江戸に到着。お目にかかりお話もした。彼は焉馬の縁者で馬喰丁に住んでいる某に止宿を頼み、約三十日ばかり滞在した。
②ところが宿賃も払わずどこかへ出かけた。(毎日出かける様子? 姿をくらました?)
③(春友亭)梅明(『猿蟹物語狂歌合』の集所を務めた人)方へも度々訪ねたようだが梅明は会うのを断った。
④その理由は浅草の?社中(五側の社中か?)に前髪の若い者がいて、その頃神奈川宿内の某寺に押し込み強盗が入り、その賊中にその前髪とよく似た者が混じっていたという疑いがあり、(江戸市中に)厳しいお触れがまわり、梅明は梅男がその前髪と同一人物であることをおそれ会うのを断ったのである。
⑤さらに梅男は江戸表で(狂歌判者披露か何かの)ちらしを作りその制作費も占正(五側の狂歌師。飯盛の助手のような仕事をしていた人物)は支払っていない。
⑥彼は屋代(弘賢)の内弟子になろうとして「野子」という人物に保証人になってくれと頼んだが「野子」は「印形事」(保証人になるようなこと)は面倒なことになるという理由で引き受けなかった。
⑦六暁園のことは承知した。額面注文のお手紙はまだ届いていないが例の通り(図添付)書いてお送りする。
⑧念のため申し上げておくが、中村屋梅太郎と糠屋七兵衛とは同一人物ではない。(中村梅太郎は清澄の子、雅望の孫。糠屋七兵衛は父・石川豊信の本名。春足が何か勘違いしたか?)梅太郎宛に草稿類をお送りになっても私のところには届きにくい。梅太郎は私の子供であるがその点よろしく。
⑨当年の月並(狂歌会)は延引している。
⑩(春足の)「作文」(何をさすか?)暫く借用したい。〆竹(彫り師か?)に彫刻させてはどうか。
⑪六暁園へよろしく。梅男の一件は申し上げたとおり。(最近)五側の評判が悪いが(梅男のことを考えれば)尤もと皆々申している。
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