
尊書有難奉拝見候
愈御安康奉恐賀候然は
猿蟹ものかたり御撰又々
無料にて御集被成候ちらし
御投被下有難奉存候諸方へ
遣候千柳へも梅あき此方ゟも
遣し両国へ出候よしニ御座候
少々手元へ余り申(候)分さし上候
御入手??候両昨年より御返書も
不申上候段真平御高免(?)可被下候
右申上候訳合ハ昨年より
誠ニ不仕合にて次男事八丁堀
三角と申所へ乾物ミ世を
出し大ニ先繁昌ハ仕候処
極月廿四日妻右居にて
死去仕候店三郎貴土蔵

うりすへ凡二百金余も相かゝり
申当春三月廿一日火災にて
作物家内諸道具とも少しも
持不出土蔵とも焼失いたし候
東湊町店ハ小子梅太郎にてしのき
迯申候者(と)もあとにてさうさう
土蔵ハ目ぬりいたし申候穴蔵ハ
手廻りかね焼失いたし候
両親ハ命からから迯申候
八丁堀霊岸しまにて焼死人
数しれ不申御遠察可被下候
親とも書物ハ裏稲荷社へ
少々(し)入申しこれハ石にてたゝき
あけ申候社にて御座候故たすかり
申半分ハ出しかね焼失

仕候生涯はしめての事
にて御座候今以隠宅も
出来不申見世のミ小家かけ
同前ニ作り罷在候なかなか
なけやりにいたし候心体ニ
ハ無之候へとも右之返し
事ともにて心外之御不音
御用捨可被下候猿かにのうた
よほと集りをり申候へとも
月なミ冊うたとも一所ニかため
焼申候残念被存候岳亭も
大人御留守にて大仕合の
事ニ御座候連中申居候
福の屋も三月火災後とんと
逢不申五六年ハ休詠
のよし承り申候馬喰丁
西与も土蔵をおとししれ物

かたり其外板木あまた
焼申候残念之事ニ御座候
何分にても御不音申上(候)段
御用捨可被下候梅男大人
へもよろしく御伝言希上候??
大取込期時申上候已上
極月廿三日 清澄
六々園先生御もとに
尚々せつかく寒中御いとひ
可被遊(??)候岳亭うしハ当暮ハ
貴地ニ罷在候やよろしく御?声
希上申候已上
気づき
*「当春三月廿一日の火災」とあるところからこの書簡は文政十二年十二月廿三日付けと判明する。
*読めないところが多々あるので間違っている恐れもあるが読み取れる情報は次の通り。
①この書簡は春足からの書簡(火事見舞い?)に対する返書である。
②『猿蟹物語』の集歌(梅明の所に集まっていた狂歌)が全部焼失したあと、春足は同じ趣旨の狂歌募集ちらし(入花料は無料)を作り、清澄方へも送った。清澄はそれを諸方(千柳、梅あき(この梅あきは『六々園漫録』「おそろしきもの」に出てくる春友亭梅明と思われる。それによると集歌は清澄方に二百ばかりも集まっていたのだが、梅明が来て自分のところにも三、四十集まっているので一緒にしようといって持って帰った))へも送った。手元に残ったちらしは(春足へ?)さし上た。(返した?)。御入手頂けたか。?
②(両?)昨年より(春足への)返書も差し上げていないことをお許し頂きたい。その訳は不仕合わせ続きで、次男が八丁堀三角という所へ乾物店を出し、まずまず繁昌していたのに十二月二十四日妻(次男の妻?)が死去。
①「店三郎~申候」意味不明。
②当春三月二十一日の火災で作物(清澄の作物か、雅望の作物か)家財道具は土蔵とも一切焼失。
③東湊町店は自分と梅太郎(清澄の子、雅望の孫)とでしのぎ、逃げた者も後で(不明)。
④土蔵は目塗りをしてあった。穴蔵は手が廻りかね焼失した。
⑤両親(雅望夫婦)は命からがら逃げた。
⑥八丁堀・霊岸島では焼死人数知れず。遠察頂きたい。
⑦親(雅望)の書物は裏の稲荷社へ少々入れてあった。この社は「石でたたきあげた」ものだったので半分は助かり半分は出しかねて焼失した。
⑧小生、生まれて初めての体験だった。
⑨小生、今以て隠居もできず、店だけは小屋がけ同然に作って居る。
⑩決して投げやりになっているのではないが貴殿への御無沙汰、何卒お許しいただきたい。
⑪「猿蟹」の集歌はよほど集まっていたが(「月に~うたとも」不明)一カ所にまとめ全部焼けてしまったのが残念。
⑫岳亭(定岡)もあなた様の(所に行き)留主だったのが仕合わせと連中(どちらの連中をさすのか?)みんな申している。
⑬福の屋にも火災後はとんと会っていない。彼は五、六年は「休詠」(狂歌を詠むことを休むこと)するそうだ。
⑭西与も土蔵を焼失し、『しれもの物語』ほか板木の多くを焼失したとのこと、残念。
⑮何分にも御無音のことご容赦願いたい。
⑯梅男大人へもよろしく。
⑰大取り込み中、またお便りします。
⑱追伸 (せっかく~候 不明)岳亭大人は当年年末は貴地(春足方)でお過ごしか。よろしくお伝え頂きたい。
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